張江家の興り「北前船ー松前城下商人ー釧路開拓へ」”佐野孫右衛門、村山伝兵衛との関わり”
        
        
        
 はじめに
        
        
 張江家の成り立ちについては、釧路市鳥取の本家にある過去帖からわかる部分と松前藩ゆかりの品、松前町にある正行寺の山門そばの古い墓石に私の四代前の張江憲貞の戒名が刻まれている
こと、釧路に渡ってからの張江豊治(張江大策の祖父)の功績、あとは釧路の開祖、米屋(佐野)孫右衛門が張江家から養子に出た事などが口伝えで語り継がれてきました。
        
 過去帖は江戸時代からの物と思われ、私の五代前の張江弥十郎から記されており、憲貞は士族と記されております。憲貞の子、喜四郎は豊治の兄であると聞かされておりました。
 憲貞が弘化四年(1847年)に長崎に渡った資料や、松前藩の家紋の入ったのぼり、印籠、掛け軸などは今も残されておりますが、長い年月のなかで、散逸されたようで、私の父が幼少の
ころまでは、松前藩の家紋入りの朱塗りのお膳が何十組も大きな箱に収められてあったそうです。また刀などは戦時中に没収されたそうです。
        
 一方の豊治の系譜である張江家にも米屋(佐野)孫右衛門から伝わる品々などがありました。それらを張江悌治氏が釧路博物館に寄贈しようと当時の館長片岡しんすけという人物に預けたと
ころ個人のコレクションとして持ち去られ行方がわからなくなったという逸話があります。
        
 ※米屋は慶応二年(1866年)より佐野と名乗る
        
 これらが今まで私が実際に見聞きしたことであり、それより前のことや詳しいことは分かっておりませんでしたが、昨今のインターネットによる情報化社会の中で何か手掛かりが掴めるの
ではないかと一念発起した次第です。
        
        
        
 除籍謄本から
        
        
 謄本からは過去帖よりも古い人物にたどり着くことはできませんでしたが憲貞や喜四郎が松前に居たことは確認できました。
 松前町役場から喜四郎の謄本を取り寄せることができました。そこには前戸主として父憲貞の名前が確認できました。また喜四郎は憲貞の三男とあります。戸主が喜四郎の謄本のため兄の
名前は確認することはできません。
 釧路市の謄本には喜四郎の妻タケが青森県弘前市新町、士族寺田清太長女と記されております。タケは長寿でしたので昭和三十五年まで存命であったため、私の父たちも本人から弘前城内
で生活していた話を聞かされておりました。
 張江豊治の謄本は入手に至っておりません。
        
        
        
 張江豊治の功績
        
        
 昭和四十四年に釧路新聞社から出版された「釧路開基百年記念写真誌」によれば明治二年、佐賀藩が釧路国(厚岸、釧路、川上三郡)を支配するなか、四代目佐野孫右衛門(喜与作)が漁場持
だった明治二年、張江豊治が釧路で最初の駅逓取扱人に任命されたとあります。
 また明治二十九年には釧路厳島神社の初代宮司菊地恵一郎を函館から連れてきたことも記されております。
 明治十七年には釧路村総代として鳥取県からの移住者を迎えました。
 また昭和四十四年に養神書店から出版された「叙情荒野(釧路の夜明け)」吉田仁麿著にも張江豊治が登場し佐野孫右衛門と類縁であるという記述があります。
        
        
        
 張江家と米屋(佐野)孫右衛門
        
        
 市立釧路図書館所蔵の昭和十一年出版「佐野氏記功碑建設記念誌」のなかに、「當代佐野孫右衛門氏ノ實父故佐野孫兵衛(養子分家)ノ實弟故張江豊治」とあります。
 つまり米屋(佐野)孫兵衛は張江豊治の実の兄であります。
        
 米屋は北前船の寄港地、越後国三島郡寺泊(現在の新潟県寺泊市)の廻船問屋であり、のちに松前に渡った孫右衛門系と寺泊にとどまった孫兵衛系の二つの系列として構成されます。
 初代孫兵衛は佐野家中興の祖とされ、初代孫兵衛の時に商権が大いに発展して蝦夷地にまで伸びたとあります。
 ここでいう初代孫兵衛の「初代」とは松前の孫右衛門系の祖を意味し、松前系の初代であると共に寺泊系の五代目になります。
 その後の米屋発展のなか一人で寺泊と松前を差配することは難しくなり、寺泊では六代目孫兵衛(岩吉)が差配し松前は二代目儀兵衛が差配することになったとあります。
        
 初代孫兵衛は文化二年(1805年)、釧路場所の請負人になり文化四年(1807年)寺泊に戻り、同年養子儀兵衛が後を継ぎ石狩川の上対雁の経営にあたり、文政五年(1822年)、再び
運上金四百五十両で釧路場所の請負人となりました。天保三年(1832年)には養子勝三郎が引き継ぎ安政三年(1856年)には樺太場所など十箇所を請負います。勝三郎は孫兵衛を孫右衛
門と改称します。
 先の「當代佐野孫右衛門氏ノ實父故佐野孫兵衛(養子分家)ノ實弟故張江豊治」の佐野孫右衛門とは四代目喜代作を、佐野孫兵衛とは三代目勝三郎を指しており勝三郎が張江家から養子に出た
ことがわかります。
        
     先述したとおり豊治は喜四郎の弟であると聞かされておりました。つまり喜四郎の父憲貞の息子であるということですが、豊治の兄である勝三郎が文化十三年(1816年)の生まれで憲貞
よりも四歳年上であることが判明しました。
 よって勝三郎の弟豊治も憲貞の子であるはずがなく、豊治が喜四郎の弟だというのは誤りで、豊治は憲貞の弟であり弥十郎の子であろうと考えます。
        
        
        
         高祖父の兄
         勝三郎
        
高祖父の父    高祖父    曽祖父
張江弥十郎    憲貞     喜四郎
        
         高祖父の弟
         豊治
        
        
        
 張江喜四郎
        
        
 張江喜四郎は聞くところには官営病院の事務長をしていたと、伝わっていますがはっきりとしたことはわかっていません。
 市立釧路図書館所蔵の「百五十年史 松田家」という冊子に明治三十二年頃、張江喜四郎が所有し広島県出身の中村佐助が管理するセキネップ(現在の仙鳳趾のあたり)の土地で松田家の祖先
が昆布採りに従事していたという記述があります。
 続いて、大正二年には張江喜四郎より土地を借用し一棟二戸建ての番屋を建設し…とあることから、セキネップという土地の地主だったことがうかがえます。
 仙鳳趾や昆布森は明治三年、四代目佐野孫右衛門(喜代作)が漁民を青森、秋田、新潟から移住させ漁場経営にあたった経緯があることから、その関係で喜四郎が地主となっていたのかもし
れません。
        
        
        
 士族の張江と商人の張江
        
        
 インターネット上の情報によれば全国の張江姓は67戸、あるいは全国推計人口270人とあり、その多くは北海道に居を構え、そのうちの40%以上が釧路にいるというデータがありま
す。
 実際のところは釧路市には7戸しかいないため20数人だと思いますので40%台が正しいとするならば全国に数十人程度しかいないのではないかと思います。
 釧路にいる張江姓はすべて親類であり、松前の出身であります。
 そこで我が系譜は過去帖等から士族であることがわかっているため、松前藩の資料を調べていくことにしました。
        
 松前藩家臣名簿はいくつか残されておりますが、そのなかでも嘉永六年(1853年)の「御扶持家列席帳・御役人諸向勤姓名帳」に張江兵五郎という人物が確認できます。家柄は士席御先
手組とあり役職は町下代とあります。御先手組席とは長炉席という中級家臣の一つに位置し、いくさの時には騎乗が許され、百十石の俸禄を与えられたとされております。
        
 また福島町史によれば幕末から明治初期にかけて松前藩士張江喜三郎が吉岡沖口番所に在勤したことが記されております。吉岡沖口番所とは出入人改や通関手続、税役の取立て等、松前沖
口奉行所業務の一部を行っておりました。
 明治元年から明治二年、箱館戦争の際の徳川脱走軍の管理下では、松前奉行人見勝太郎(幕府遊撃隊長)配下の倉本勇太郎、市川靜馬の二人が吉岡沖ノ口掛調役並勤方として勤務しています。
 明治三年に場所請負制度が廃止され吉岡沖口番所は開拓使のもと海官所と改称されますが、そこでも張江茂兵衛が執務にあたったことが北海道大学付属図書館所蔵の「鈴木忠美日誌」に記さ
れております。
        
 また松前町史によれば「北門史網」という資料に松前藩主松前崇広が大胆な家臣の登用を行ったことが記され、その中に嘉永四年(1851年)、張江甚兵衛が家臣新規登用者として名を連ね
ております。
 これらから確かに松前藩士に張江姓が確認できますが、我が系譜との直接的な関係を裏付けるには至りません。
        
 松前藩士に見る張江姓は1850年代から明治までの短い期間でのみ散見され、それより古い文献には商人としての張江姓が台頭しております。
 江戸時代後期の松前藩は特権商人に士分を与え役人に登用することがあったことがわかっているため、調べを進めるうちに、士族の張江家も商人からの登用ではないかとの考えに至りました。
 事実、当家の過去帖には憲貞が士族と、あえて記されているのも、その父、弥十郎までは士族ではなかったことが窺え、戒名も憲貞の仁光院譲誉行遵禮忠憲貞居士と父弥十郎の戒名、
聞誉受楽信士とには明らかな違いがあるため、憲貞の代に藩士に登用されたものと類推されます。
        
        
        
 北前船と阿部屋張江家・阿部屋村山家
        
        
 豪商村山伝兵衛の名も同じ嘉永六年(1853年)の藩士名簿に、役職町下代として名を連ねています。この村山伝兵衛は六代目(直之)であり、士分に取り立てられたのも、この代からであり
ます。
 三代目村山伝兵衛は寛政年間には二十ヶ所余りの請負場所を持ち、松前随一の豪商といわれただけでなく「日本長者鑑」に「西の横綱・鴻池善右衛門、東の横綱・村山伝兵衛」と称される
ほどでした。
 そこで村山伝兵衛について書かれた書籍が数多くあるため、それらを紐解いていくと松前に渡った張江家の経緯が明らかになりました。
        
 北海道開拓記念館所蔵「村山家資料目録」によると初代村山伝兵衛は天和三年(1683年)に能登国羽咋郡阿部屋村、現在の石川県羽咋郡志賀町阿部屋に生まれ、同郷で先に松前で活躍した
阿部屋張江家の使用人となり船頭として頭角をあらわして、松前藩船頭役古屋勘左衛門の知遇を得、やがて藩御用の回船業を家業とし、後に大商人になったとあります。張江家は故郷の阿部屋
村からとった「阿部屋(あぶや)」を屋号としており、村山伝兵衛も同じ阿部屋の屋号を使ったことが記されております。
        
   さらに阿部屋張江家は古来から苗字帯刀を許され、享保七年(1722年)に藩より15軒に問屋株を許されて以来の福山の問屋でもあって、生粋の城下商人ということができるとあります。
 また「村山家代々書」には親類として松前の張江甚兵衛、太次兵衛、茂兵衛がみえるほか、「元祖、本国同宗村山伝吉」とならんで張江又右衛門の名が記してあって、張江姓の者が阿部屋村
に居たことを物語っているとあります。
        
   平成二十年に無明舎出版から出版された「北海道海の人国記」伊藤孝博著に阿部屋村から松前に最初に進出した張江姓は張江甚兵衛であることが記されております。
 また寛政元年に記されたと推定される飛騨屋文書「松前風説書」に「町年寄町奉行下代兼帯張江甚兵衛、是ハ伝兵衛本家。同断村山伝兵衛。町奉行下代福井吉郎兵衛、是ハ張江甚兵衛縁組」
とあって、阿部屋張江家は阿部屋村山家の本家であることを裏付けています。
 これらから松前に勢力を伸ばした張江家は能登の北前船の廻船業者であったことが解り、士族の張江家は商人からの登用であることが明らかになりました。
        
        
        
 我が系譜と阿部屋張江家
        
        
 ここまでに記述してきたことを勘案しながら改めて釧路市誌を読み返した時に、次の一節が目に止まりました。
        
 「阿部屋(村山家)は能登国羽咋郡阿部屋村の出であり、米屋孫兵衛の四代先の祖先が能登から出たという同郷関係が指摘されるが確かなことはわからない」との曖昧な表現があります。
 筆者はここで言う孫兵衛を初代孫兵衛だと解したために、その四代前は越後国三島郡寺泊の出であることが解っていたため、つじつまが合わず歯切れの悪い表現になったものと思われます。
        
 ここで言う孫兵衛は張江家から養子に行った三代目孫兵衛(勝三郎)のことだと解すれば、その四代前の祖先、つまり張江弥十郎の三代前の祖先が能登から松前に渡ったということになり、
村山伝兵衛の本家である松前に最初に渡った阿部屋張江、張江甚兵衛である可能性があることになります。
        
 また文政五年(1822年)に二代目米屋孫右衛門(儀兵衛)の釧路場所請負の請負運上願書が釧路市史に載っており、ここにも問屋制度による保証人として、阿部屋茂兵衛の名が岩田金蔵と
共に署名されております。
        
 ※岩田金蔵も嘉永六年(1853年)の藩士名簿に記載されております。
        
 また阿部屋は天保期の請負運上願書のなかにも現れており米屋(佐野)家の有力な資金的なバックになっていたとあります。
 つまり張江茂兵衛が二代目米屋孫右衛門(儀兵衛)の保証人になる間柄にあり、三代目孫兵衛(勝三郎)が我が張江家からの養子であることから張江茂兵衛が我々と何らかの関係があること
がわかります。
 前述した「村山家代々書」に「村山伝兵衛の親類として松前の張江甚兵衛、太次兵衛、茂兵衛がみえる」とあることからも、張江茂兵衛と関係があることが明らかであるなら、張江甚兵衛
と関係があることの確証になります。
        
        
        
 飛騨屋武川家・松前藩家臣杉村家
        
        
 「飛騨屋文書」の中に天明七年(1787年)四代目飛騨屋久兵衛(武川倍郷)が藩に宛てた願書があり、宛名に張江甚兵衛の名があり、後に村山伝兵衛の名が続きます。
 飛騨屋(武川家)とは飛騨国(岐阜)出身の材木商から発展し江戸や松前で活躍した商人で安永三年(1775年)に最初の釧路場所請負人となりました。先祖武川倍招は武田信玄の家臣であり
ます。
 また北海道大学付属図書館所蔵の「田中家記録」に函館の商家田中家(大津屋)の系図が記されており、その中に親類として武川家や杉村家の系統が示されていますが、この杉村家の系譜に、
張江甚兵衛の名が記されています。杉村家の家柄は弓ノ間席の上級家臣であります。松前藩主8代目の松前道広の三男は杉村治義であります。
 新撰組二番隊組長の永倉新八は維新後、松前に戻り杉村松伯の娘を嫁として養子となり杉村義衛と改名しました。
        
        
        
 張江甚兵衛、張江茂兵衛
        
        
 張江甚兵衛は元禄年間(1688〜1704年)以前に松前に渡ったことがわかっており、その150年以上後に前掲した嘉永四年(1851年)の「北門史網」にも新規登用者として記されて
いることから張江甚兵衛の名が名跡であることがわかります。
 また張江茂兵衛も寛政元年(1789年)に村山専八に宛てた「借用申証文之事」が村上家資料に残っている一方で、その81年後の明治三年(1870年)の鈴木忠美日誌等にも、その名が
確認できることから張江茂兵衛も名跡であることがわかります。
 しからば我々の祖先張江弥十郎や張江憲貞が張江甚兵衛や張江茂兵衛を名乗っていた可能性も考えられます。
 おそらく張江茂兵衛も張江太次兵衛も最初に能登から松前に渡った張江甚兵衛から分家したのではないかと考えます。
        
        
        
 まとめ
        
 以上のことから能登の廻船問屋である張江弥十郎の曽祖父が北前船による交易で元禄年間(1688〜1704年)以前に松前に移り、弥十郎の実子勝三郎が米屋(佐野)家に養子に入り、
米屋(佐野)家の繁栄に寄与し、憲貞は松前藩に登用され、明治二十九年まで存命であり、墓が松前にあることから生涯を松前で過ごし、張江豊治は松前を離れ三代目佐野孫兵衛(勝三郎)と共に
釧路開拓に乗り出し、張江喜四郎も憲貞と共に釧路に移り住んだという事になります。
        
   江戸時代の人物の名前は現代と仕組みが異なり、武士の名前は、姓・通称・諱名(いみな)の三部で構成され諱名は親しい間柄でも呼んではならず、本人も普段用いないとされております。
前掲の、吉岡沖口番所に在勤した張江喜三郎と共にその任にあたった鈴木忠美も「鈴木忠美日誌」のなかに鈴木鉄三郎忠美とあることなどから、張江家の過去帖にある憲貞は諱名(いみな)と
解され、墓の場所や、兄弟達の処遇から考えても、資料にその名が現れないのは不自然であることから、張江甚兵衛憲貞であるとか、張江茂兵衛憲貞といったように姓張江と諱名(いみな)憲貞
の間に通称があり、その通称がこれまで書き連ねてきた松前関連の資料に登場する人物である可能性があると考えます。
        
        
        
 平成二十一年三月
                              張江 純一郎
        
        
        
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